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Visions of Masochist
自分を律し、行き先を指し示す【Vision】。 しかし、行き先の分からない「背徳の幻想」が、私の中には存在する。
春琴抄を読む
Mを自覚したことがある人なら、谷崎潤一郎の小説は必ず一度は手に取ったことがあるだろう。


フランス書院文庫に代表される「いわゆるエロ小説」ではなく、学校の図書館でも借りることができる「文学」の範囲の中で自分の願望を反映することができる貴重な素材である。


大学の頃、一応、読んでみたことはあった。


読点が全くない独特の文章、そして、当時既に結城彩雨の小説を片っ端から目にしていたせいもあり、正直に言えば大して記憶に残らなかった。


一度は処分しようと思った。
しかし、Mを自覚する自分が、こういう作品をきちんと受け止めてみることもせずに手放してもいいのだろうか、そう思うと捨てることもできず、本棚の隅に保管しつづけていた。


先日、読み返してみてやっと、いろいろな部分に引き込まれ、最後まで一度に読んだ。


最初に読んだ時は、佐助が自ら自分の視覚を絶つ行為が、「壮絶な奉仕の行為」として描写されているように感じた。確かにそういう側面もあるかもしれない。でも、それは本質的な理解ではないように思う。


佐助はその後も春琴の顔を見続けることができたとしたら、彼自身は春琴の「かつての美貌」と「今の顔」とを比べ、そこに何かを感じただろうか。今の私はそのことを考える。


恐らく、見続けていたとしても、彼は主人の美貌が穢され、以前の美貌を失ったことを慟哭することはなかっただろう。春琴の感情を仮に全く無視することができたならば。


女性には、一般的な他人が評価する美しさと、必ずしもそれと連動していない美しさがあると思う。


前者はある意味貨幣のようなもので、沢山あれば豊かな美を持っているように自分も他人も思うものである。そして後者は心の豊かさのように、定性的で個人的で、しかしながら普遍的なもの、私はそう考えている。


後者の美しさは、目に見えるようで本質的には見えず、何かの尺度で測れるものでもない。そして、お互いの心のありようによっては、その普遍性を失う危うさをも秘めている。しかし、だからこそそのことを確かに知覚できる者からすれば、決して他に代替することのできない唯一絶対の美のかたちなのだ。


「あなたは一般的には美人でないけれど、私にとっては美人です」と表現することは、後者の美を毀損する行為である。何のてらいもなくこういう言葉を発している男性は、きっと死ぬまでその意味を見抜けないままそれを繰り返すのかもしれない。


女性の美しさは、人形のように、それ単独では存在しているものではなく、絶えず「他」との関わりあいの中で揺らぎ、干渉され続けるものではないだろうか。


「今までも、これからも、決して離れることなく足下で侍座している自分は、主が自分の美が最高であったと自認する時のままの姿を揺らぐことなく持ち続けている。」


春琴に対して、佐助の立場からその美貌に対する意思を発するには、自らの存在を賭けてそのことを立証するよりなかっただろう。


「愛する人のために、自らの知覚さえ絶って自分の存在を捧げた」


のではなく、


「自分の生そのもので、主人の美が永遠であることを立証する人生を選んだ」


のだと思いたい。「立証するため」であって、「くさいものにふた」では決してない。


「永遠の美」を既に持っているにも関わらず、貨幣の美しさまで求めようとする姿を、足下から主を仰ぎ見る下僕は心を熱くしながら見つめるだろう。


「貨幣の美しさ」しか見ることのできない男性は不幸者だ。私は、私を捉えて放さない美しさを放つ主の足下に、鞭で腫れ上がった体を晒し、息も絶え絶えになりながら呻き、主を見上げる。


そこに見えるのが、佐助が見ていた「美」に近いものであることを、私は望んでいる。
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テーマ:SM - ジャンル:アダルト

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